製作記録

活版印刷やデザインなどの製作記録です

活版印刷を好きでいるために

新しく埼玉県に場を作ることになり、自分の足跡を辿っていた。どんな場にしたいのか、これからどう制作していきたいのか。そうしたことを考えているうちに、活版印刷についてを考えるようになった。


私が活版とデザインの工房を始めた頃、ちょうど活版ブームが一度落ち着いた時期だったように思う。「ブームは終わった」と言われることもあった。けれど、私にとっては終わったなんて感覚はなく、ただ活版印刷が好きだった。仕事にしたい、というよりも、ただ関わり続けていたかった。そのための場所を作りたいという感覚に近い。そして、こんなに素敵なのに、なぜ「終わった」と言われるのか、当時の私にはわからなかった。私の目には、活版印刷の魅力しか映っていなかった。

歴史も、仕組みも、作られる過程も、その場を支えている人も、そして今そこにある印刷物も。そのすべてが、ただ好きだった。


2014年は弘陽の三木さんのところへ、竹村と二人で活版印刷を習いに通っていた。何度か一緒に通ったあと、私一人で行った日に、三木さんに

「竹村さんのほうが印刷に向いている。あなたはデザインをやっていったほうが、この先困ることが少ないと思う」

と言われた。

印刷の仕事がなくなったときのこと、別の仕事を持っていたほうがいいこと、そして向いている人がやったほうがいい、ということ。

そういう話を、淡々とされた。私も自分の気質が、仕事として印刷をし続けることに向いていない、ということをわかっていたから、そう言ってもらえたことがあまりに腑に落ちてしまって、思わず吹き出したことを覚えている。

 

 

活版のいろはを一通り習ったあと、私は活版印刷がとりわけ好きなデザイナーとして、企画やデザイン、ディレクションの仕事に邁進していった。

すぐ隣で活版印刷機を動かし続ける竹村を横目に、私の活版印刷への思いは、頭の中でどんどん膨らんでいった。

あの頃は、活版印刷を知ってもらうこと、使ってもらうことが何よりも先だった。わかりやすく伝えるために、凸版でデコボコとした表情を活かしたアイテムを多く作り、さまざまなイベントに出ていた。活字組版のワークショップイベントも、精力的に行っていた。やがて紙ものブームが訪れ、かわいい活版印刷のアイテムが増えていった。

大きな文具会社も活版印刷の商品を出し、あちこちで活版を目にするようになった。素敵なものが増えていくのが嬉しくてたまらなかった。

その一方で、活字組版が少しずつ、なかったことにされていくような感覚に、小さな不安も覚えていた。

活版印刷をしている人にも、たくさん会った。どの人も、惜しみなく多くのことを教えてくれた。

私はもともと、本が好きで、文字が好きで、紙が好きで、デザイナーになった。活版印刷は、その「好き」が重なり合った、私にとって特別な存在だった。

 

 

素敵な活版印刷(凸版)のカードを目にすることが増え、海外の美しい印刷もインターネットを通して多く見るようになり、私の関心は自然と「文字を印刷すること」へ向いていった。

始めてから数年が経ち、さまざまな活動を通して、少しずつ収入が入るようになってきた。それまで金額的に手を出すことが難しかった活字組版の制作にも、ようやく着手できるようになった。

活字は、手間暇の問題もあるが、とにかく高い。初めての活字組版の作品は『銀河鉄道の夜』だった。全文を組むのは金額的に難しく、カードブックという形になった。それでも、私にとっては宝物のような制作物だった。

 


活字の良さを実感しながらも、依頼ではやはり、金額的にもデコボコとした凸版での印刷が多かった。それもまた活版印刷の魅力であり、そうした仕事が続いていった。

活字を使いたいと思いながらも、金銭的な理由や、求められるものとのバランスから、なかなかそれを勧められない状況が続いていた。どうすれば、もっと活字を使ってもらえるのか。どうすれば、デコボコ以外の活版印刷の魅力を知ってもらえるのか。

そんなことを、ずっと考えていた。

 


そして、コロナ禍で、仕事がパタリとなくなった。

ぽかんと時間ができてしまったけれど、作ることをやめることができなかった。活字を使いたいと思う私と、活字をもっと触りたいと思う竹村とで、「いま持っている活字で何かしよう」と話した。

持っている活字で、毎日のように俳句を組み、印刷し、それをネットにアップした。気づけば、百日以上、毎日刷り続けていた。活字で刷られた句は美しく、それを見るたびに、もっと活字を使いたい、という気持ちが少しずつ、確かに固まっていった。

 


だんだんとコロナ禍が落ち着き、仕事も少しずつ戻ってきて、私の関心は、よりはっきりと活字組版を用いた制作へ向いていた。

活字を使いたい。活字で文字を刷りたい。活字で、本を作りたい。

その思いが、以前よりも明確になっていた。


そんな中で、市谷の杜 本と活字館で講師の仕事の機会を得た。スタッフの方に、活版印刷や活字組版のいろはを教える立場になった。

私も竹村も、教える側になることへの不安は少なからずあった。それでも、共に成長していけたらと思い、さまざまな課題を考え、制作を重ねていった。教えるという緊張感もあり、活字について考え、学ぶ時間が圧倒的に増えた。

歴史をもう一度見直し、活字に触れる回数も、自然と多くなっていった。活版印刷や活字組版について伝えていくなかで、私の中で、活版印刷への思いはさらに強くなっていった。

活字組版の難しさと楽しさ、そして印刷されたものの美しさを観察する日々が増えていった。


コロナ禍以降も、紙ものブームはさらに加速していった。私が作らなくてもいいのでは、と思うほどに、活版印刷のアイテムを作る人は増え、作る場も増えた。

それでも、私はやめることができなかった。

私の思う活版印刷の魅力をまだ伝えきれていないし、自分自身でも見つけきれていないと感じていたからだ。この頃から、自主制作では活字組版を用いた制作の比重を増やしていった。

活字組版を使えば、どうしても制作費は嵩む。それでも、活字を使いたかった。そして、その魅力を伝えていきたかった。


活字組版で一冊の本を作る、と決めたものの活字組版に見合う本の形がなかなか決められず、活字を拾ったあとも、数年間そのまま置いてしまった。

デザイナーとして、そして活版印刷が好きな一人として、全て活字組版で本を作るということには、大きなプレッシャーがあった。

考えて考えて、経験と知識、そして私の「本が好き」という気持ちと、「活版印刷が好き」という気持ち、そのすべてを包括して、悩んで、また考えて、私の中でこれ以上ないと思える出来栄えの『やまなし』が生まれた。

出来上がった本は、あまりに美しくて、私の活字組版への思いも、活版印刷への思いも、さらに深まってしまった。


『やまなし』を作り、活字組版の魅力をさらに知り、私としては、もう本当に満足だった。あれ以上の活版印刷の本は作れない、とすら思った。

それでも、『やまなし』を見た人から「活版なのにデコボコしていない」と言われることもあって、なんだか途方に暮れてしまった。いろんな人がいるのはわかっている。いろんな魅力があるのも、わかっている。でも、活版印刷は、あまりにデコボコの印刷として広がり続けている。それを止めることはもうできないこと、止める人もいないことが、苦しかった。

 


活字組版の美しさは、文字が並ぶその揺れの中にある。ひとつひとつの文字というよりも、紙の上に生まれる空気のようなものが、美しいのだ。

写真にはうまく映らないし、映らなくて良いとも思っている。

印刷する以外の立場から10年以上活版印刷について考えた。

美しく印刷が至上とされる印刷業界で、私は美しく刷らないこと、摩耗する様子を見続けることを選ぼうと思った。印刷しない私だからできること。そう思い、いつか朽ち果てるとしても、制作実験をはじめた。

 


実験のために久しぶりに刷り続けて、印刷機を動かし続けた。100枚、200枚と刷り続け、活字は全く磨耗しなくて、力尽きそうになりながらもその強さに笑ってしまった。500枚刷ったところであまりに活字の摩耗が起きず、印刷機のセッティングを変えてもらい、より摩耗しやすい形にして印刷をした。嫌々セッティングを変えてくれた竹村には感謝しかない。そこからまた300ほど刷り、合計で800枚ほど刷った。体を動かす、印刷は楽しかった。私が印刷をする人間だったら、こんな考えすぎの実験なんてやることはなかっただろうなと思った。

正直、印刷担当が羨ましい時が多かった。私の活版印刷への関わり方はなんだかおかしくて、自分でも変に捻くれてしまった自覚はある。今回の実験制作は、そんな私の積み重ねた年月の上に成り立っている。

 


この制作実験をすることがない未来が良かった、とすら思ってもいる。私はずっと活版をただ好きで、かわいい、綺麗と紙の上に生まれる表情に一喜一憂するデザイナーのままでいたかった。

でも、私はこの制作実験をして、この冊子を作ることを決めた。

私がこれからも活版印刷を好きで、作り続けていくために、言葉にして、形にして、まとめておく。

明日からも活版印刷について考えて、作り続けていく。

ずっと、作り続けていく。

 

冊子はこちらから↓

https://kappan.stores.jp/items/696f4d02e6bd9507a76fb486